戦乱の後、豊臣秀吉の三条、五条橋の架け替えなどを経て、鴨川の河原は見世物や物売りで賑わいます。それにともない、富裕な商人が見物席を設けたり、茶店ができたりするように。これが納涼床の始まりです。
江戸時代に入ると石垣や堤が整備され、付近に花街も形成され、歓楽街になりました。祇園祭の神輿洗いでは見物客で大変賑わったといいます。
江戸中期には約400軒の茶屋が床机の数を定めるなど、組織化も進んでいたようです。当時の床は浅瀬に床机を置いたり、張り出し式や鴨川の砂洲に床机を並べたもので「河原の涼み」と呼ばれました。
明治時代になって、7、8月に床を出すのが定着、鴨川の右岸・左岸両方に床が出ていました。 両岸は高床式の床、砂洲は床机、三條大橋の下には河原から張り出した床が出ていたようです。
明治27年(1894)の鴨川運河開削や大正4年(1915)の京阪電車鴨東線の延伸などにより、左岸(東側)の床が姿を消し、大正時代には治水工事のため床机が禁止され、工事により禊川ができます。
昭和4年、半永久的な床は禁止になります。昭和9年の室戸台風、翌年の集中豪雨で納涼床は壊滅的な被害を受けました。さらに第二次世界大戦では完全に納涼床の灯が消えます。
戦後、昭和27年「納涼床許可基準」が策定され、景観上の基準になりました。 納涼床を許可する窓口である京都鴨川納涼床協同組合(前・鴨涯保勝会)は「納涼床設置規則」を定め、納涼床の文化風習を未来へと伝えるべく尽力しています。
慶長末年(1614)〜 寛永年間(1644) |
河原は遊女歌舞伎や女能などの遊興地となり、絵巻物「四条河原図」に賑わいの様子が描かれる。 |
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寛永2年(1662) | 中川喜雲著『案内者』に納涼床の様子が描かれる。 |
元禄年間(1688〜1703) | 四条河原の納涼床が賑わいをみせる。 |
宝永5年(1708) | 3月8日 洛中大火発生により都風俗が一時衰退。 |
宝暦年間(1751〜1763)〜 天明年間(1781〜1788) |
四条河原の第二次最盛期を迎える。 |
安永年間(1772〜1780) | 円山応挙の「華洛四季遊楽図」・「都名所図会」(1780)・「都林泉名勝図会」(1799)に盛期の様子が描かれる。 |
文政9年(1826) | 水際の床几形式の納涼床から川に足をつける様子が「四条河原真景」に描かれる。 |
明治期 | 納涼床の期間が7〜8月の2カ月間で定着。 |
明治10年(1877) | 四条大橋東南詰め付近の河原一面、鴨川の水上に床机形式の納涼床が出る。 |
明治25年(1892) | 四条大橋東詰めに高床形式の納涼床が出る。 |
明治27年(1894) | 四条大橋東南詰めに高床形式の納涼床、三条大橋の橋下一帯には日の高いうちから床机形式の床が出る。 |
大正初期 | 治水工事によって禊川ができる。 |
大正12年(1923) | 「鴨川河川敷一階占用並びに工作物施設の件」が通達され、納涼床の基準が定められる。 しかし、柱に鉄柱を用いたり、屋根を付ける店舗などが増え、風致上の支障をきたす。 |
昭和4年(1929) | 河川敷に半永久的な高床式の納涼床を設置することに制限が課せられる。 |
昭和9年(1934) | 全国で約3000人もの死者・行方不明者を出す室戸台風が発生。 |
昭和10年(1935) | 6月、集中豪雨が発生。京都市内に大被害を受け、この時に出ていた納涼床はすべて流される。 その後、補修工事によって現在の姿となる。 |
昭和17年(1942) | 太平洋戦争の灯火管制のため、納涼床が禁じられる。 |
昭和26年(1951) | 4月、京都府議会で協議会が開催。5月に「鴨川の高床について」の通達がだされ、数軒の店舗が納涼床を始める。 |
昭和30年頃 | 40〜50軒の店舗が納涼床の設置を出願。 |
平成11年(1999) | 5月1日〜9月15日までの夜床、5月のみの昼床の営業が認められる。 |
平成12年(2000) | 5月1日〜9月30日までの夜床、5月・9月の昼床が認められる。 また、第1回清祓式が実施される。11月3日、都市環境デザイン会議において第1回JUDI優秀賞受賞。 |
平成18年(2006) | 4月、「鴨涯保勝会」が京都鴨川納涼床協同組合として認可される。 |
平成19年(2007) | 「鴨川納涼床」が地域ブランドとして商標登録される。 |
平成27年(2015) | 納涼床の申請が100軒を数えるまでになる。 |