京都の三大行事

幕末をゆく その1

角倉了以の高瀬川開削により、高瀬川の水運で運ばれる材木の倉庫や問屋が建ち並び「木屋町」と呼ばれるようになった。長州藩屋敷、土佐藩邸にも近く、水運も便利なためか志士たちの寓居跡碑が多くたつ。

  • 佐久間象山・大村益次郎遭難之地碑

    佐久間象山・大村益次郎遭難之地碑

    元治元年(1864)、開国論者で西洋学者として名高い佐久間象山が河上彦斎、前田伊右衛門らに暗殺される。明治2年(1869)には兵部大輔となった大村益次郎が木屋町の宿で不平士族に襲われ、大阪の病院に運ばれるが二カ月後に亡くなる。二つの碑は高瀬川右岸に並んでたつ。

  • 武市瑞山先生寓居之跡碑

    武市瑞山先生寓居之跡碑

    土佐勤王党の首領で坂本龍馬とも仲が良かった瑞山(半平太)は、土佐藩の京都留守居組加役に抜擢される。「天誅」と称するテロの黒幕として暗躍した。文久3年(1863)、八・一八の政変での長州藩の失脚とともに土佐に帰されたのち、勤王党の弾圧に遭い投獄され切腹。享年37歳。

  • 吉村寅太郎寓居之址碑

    吉村寅太郎寓居之址碑

    天誅組を率いて挙兵するが八・一八の政変で一転朝敵となり、大和の東吉野村鷲家口で壮烈な戦死を遂げる。享年27歳。京都では瑞山の寓居のすぐ近くに住んだ。二人は会話を交わしたのだろうか。

幕末をゆく その2

先斗町の名はポルトガル語に由来するとも、鴨川と高瀬川に挟まれた「堤(つつみ)」であるため「鼓(つづみ)」にかけた洒落で「ポン」と鳴るのでこの名がついたともいわれる。江戸時代、二条新地の出稼ぎ所として置屋やお茶屋の営業が認められ花街となった。

  • 本間精一郎遭難之地碑

    本間精一郎遭難之地碑

    勤皇から佐幕へ変節した容疑で、越後浪士・本間精一郎が6人の刺客に襲われた。その1人、土佐の「人斬り以蔵」こと岡田以蔵の刀痕が付近の民家に今も残る。

幕末をゆく その3

京都で発生した近世の最大規模火事といわれる天明の大火(1788)は、団栗橋の東側で発生したため「団栗焼け」とも呼ばれる。旅館が多く建ち並び、隠れ家的な雰囲気も漂う。春は四条〜五条間の高瀬川沿いの桜がライトアップされイベントも開催される。夏はゆったりと楽しめる静かな床が古(いにしえ)の面影を伝える。

  • 江戸末期の商家の風格を伝える

    江戸末期の商家の風格を伝える

    築220年以上の風格ある建物が、ひときわ目を引く。天明8年(1788)創業の鳥鍋屋だ。創業以前はかしわ(鳥肉)屋だったといい、玄関向かって右手には鳥小屋もあった。龍馬もしばしば訪れていたと伝わる。たしかに、今にも龍馬がのれんをくぐって出てきそうな雰囲気がある。

  • 番外編 明治時代

    京都電気鉄道(のちの京都市電)

    京都電気鉄道(のちの京都市電)

    木屋町通は明治28年(1895)2月に、電車が通った通りだ。岡崎で行なわれた京都内国勧業博覧会の会場に向けて、琵琶湖疏水による蹴上発電所の電力を使って走らせた。1920年代に河原町通が拡幅されてからは、市電は河原町通を走るようになった。木屋町五条から西へ曲がる電車は高瀬川を越える。レンガ造の橋桁に、往時の名残りを見ることができる。

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