今年のNHK大河ドラマのヒロインは新島八重。旧姓山本八重です。 八重は会津藩の砲術師範・山本権八の娘として生まれました。17歳上の兄が山本覚馬です。籠城戦になった会津戦争では男装して自ら銃をとって戦いました。「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる所以(ゆえん)です。敗北ののち、銃を捨てた八重は京都府顧問に就任していた兄・覚馬を頼って京都へ。京都で八重の第二の人生が花開きます。
先進的な考えを持っていた覚馬の周りには理想に燃えた青年たちが集まっていました。アメリカ帰りの新島襄もその一人。単身密航して渡米し、10年を海外で過ごし、その自由な気風を存分に呼吸し日本にキリスト教の学校を創立するという夢を膨らませていました。そのころ、八重は日本最初の女学校、女紅場に勤めていました。
ある夏の日、覚馬に会いに来た新島が、京都の夏の暑さに耐えきれず井戸の上に板を渡して坐り裁縫をしていた八重を見て、新島が「お嬢さん危ない」と声をかけ手を差し出したのが二人がお互いを意識した始まりだといわれています。
新島は八重のことを「決して美しい人ではありません。ですが生き方がハンサムなのです」とアメリカの養母に書き送っています。二人は明治9(1876)年、京都で日本人としては初のキリスト教式の結婚式を挙げました。その前年、同志社大学の前身である同志社英学校が開校。教育の理想に燃える新島と既成概念に捉われず自分の信念のままに行動する八重。二人はまさに運命のカップルでした。
欧米流のレディファーストが身についていた新島は、人力車に乗るときも八重を先に乗せました。その姿を見た旧弊な人々から「旦那様より先に車に乗る」悪妻とそしられました。また、同志社英学校の学生だった徳富蘇峰は「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺のような女性がいる」と評しましたが、いかなる誹謗中傷にも八重はまったく動じませんでした。蘇峰は新島の死後今までの非礼を詫び、八重に献身的に仕えたといいます。
新島との結婚生活はわずか14年でした。未亡人となった八重は裏千家の茶道家として活動する一方で社会奉仕に身を捧げ、日清・日露戦争では篤志看護婦として従軍しました。これにより八重は民間女性としては初めて、叙勲を受けました。
八重は昭和7年、86歳で亡くなりました。江戸、明治、大正、昭和と激動の時代を生きた八重。その鮮烈な人生は平成の私たちの胸にも響いてきます。
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同志社大学
場所:京都市上京区今出川通烏丸東入ル
幕末の日本を21歳のとき単身で脱出して約10年アメリカで暮らした新島襄は「自由」「良心」を基本にしたキリスト教主義教育を日本で実践するために帰国。理想の教育を実現させるために明治8(1875)年、同志社英学校を創立しました。今出川キャンパスは妻・八重の兄である山本覚馬が所有していた薩摩藩邸の敷地で、旧薩摩藩邸跡の石碑も立ちます。京都に現存する最古の煉瓦造りである彰栄館をはじめ5件の重要文化財、2件の登録有形文化財など煉瓦造りの洋館が並ぶキャンパスは歴史を感じさせます。
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旧新島邸
場所:京都市上京区寺町丸太町上ル松蔭町
コロニアル様式の外観ですが内部は和洋折衷。フローリングでテーブルと椅子、ソファが置かれた応接間があり、日本最初の板張りの洋式トイレもある一方で、障子欄間、襖、箱階段なども設置されています。暖炉があり、暖炉の熱をダクトで各部屋に送るセントラルヒーティングの設備は当時としては画期的なものでした。明治11(1878)年竣工。京都市指定有形文化財。新島夫妻を慕って、ここに集まった教育への新たな理想に燃えた人々の情熱が、今もこの邸宅に息づいているようです。s
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同志社墓地
場所:京都市左京区鹿ヶ谷若王子山町
京都市共同墓地若王子山墓地内にある同志社ゆかりの人々が眠る同志社墓地に、新島襄・八重夫妻、山本覚馬、兄妹の両親、山本権八・佐久夫妻の墓などがあります。同志社創立に尽力した宣教師・デイヴィス、新島の片腕となった徳富蘇峰の墓もあり、墓地は近代を切り拓いた人々の思いを抱いて、ひっそりと鎮まっています。鹿ヶ谷にある若王子神社手前の脇道から山道を約15分ほど登らねばなりません。あまり整備されていないのでご注意を。
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金戒光明寺
場所:京都市左京区黒谷町121
法然上人が草庵を結んだのが起源とされる浄土宗大本山くろ谷の寺院。京都守護職に任命された会津藩主松平容保は、浪士隊(のちの新選組)を率いて上洛。金戒光明寺を本陣としました。これにより、会津藩との絆が深まり、山上墓地北東の約300坪の土地に「会津藩殉難者墓地」があり、文久2年~慶応3年の5年間に亡くなられた237霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀る慰霊碑があります。女性も武士以外の名もない人も祀られています。八重もここを訪れました。
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京都府庁と容保桜
場所:京都市上京区下立売通新町西入ル
京都府庁は元京都守護職上屋敷の跡地にあります。ルネサンス様式の府庁旧館は明治37(1904)年竣工。重要文化財。この本館中庭は桜守・佐野藤右衛門が作庭した桜の名所として親しまれています。その中の1本が山桜が変異したもので、山桜と大島桜の特徴を兼ね備えた新種ということが判明し、京都守護職だった会津藩主松平容保にちなみ平成22年、「容保桜」と命名されました。通常の山桜より大輪の花を咲かせ、気品ある姿が激動の時代を生きた藩主に重なります。
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女紅場
場所:京都市上京区丸太町通河原町東入ル南
日本初の女学校・女紅場は明治5(1872)年、九条家河原町別邸内に設立されました。英国人イーバンス夫妻を教師に招き、英学と女工(手芸・手工)の二科を置きました。まだ新島と出会う前の八重は女紅場の権舎長・教道試補として、養蚕と小笠原流礼法を教えていました。この時の経験が学校運営に役立ったといわれています。明治7年に英女学校女紅場、のちに京都府立京都第一高等女学校となります。現在の鴨沂高校の前身にあたります。現在は石碑がたつのみです。
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建仁寺
場所:京都市東山区大和大路通四条下ル小松町
晩年の八重は新島邸の茶室で女性に茶道を教えながら、毎月茶会を開いていました。茶会を通じて建仁寺の竹田黙雷和尚との交流を深め、黙雷和尚の説法を聴くようになり、和尚から安名(法名)と袈裟を授かります。これにより「八重はキリスト教から禅宗に改宗した」と非難されますが、八重は「ひとつの宗教に籍を置いているからと言って他の宗教のお話を聞いてはいけない、ということにはならないでしょう」と相手にしませんでした。周囲に捉われず、良いと思ったことは積極的に取り入れる、八重らしいエピソードです。
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南禅寺天授庵
場所:京都市左京区南禅寺福地町
南禅寺塔頭の天授庵は肥後藩(熊本県)ゆかりのお寺です。実学を重んじ、鎖国・幕藩体制を批判した熊本藩士、横井小楠は交易が国家に必要と説き、坂本龍馬に大きな影響を与えました。維新後京都で暗殺された小楠と長男・時雄の墓があります。時雄は同志社を出て、山本覚馬の娘と結婚しました。その縁で新島襄の父親の墓もありましたが、現在は同志社墓地に移されています。幕末と明治が交錯する場所です。