京都のコラム

高瀬川開削400年―角倉了以と素庵

柳の新芽が川面に揺れる高瀬川。街中でありながら、清らかな水と緑あふれる川辺は憩いのひとときを与えてくれます。
実は高瀬川は人工の運河だということをご存知でしたか。今年は高瀬川が開削されて400年という記念の年に当たります。

京の三長者の一つ角倉家

亀山公園内に立つ角倉了以像   高瀬川開削という後世に残る画期的な事業に取り組んだのは京都の医家、吉田家四代目として生まれた角倉了以(1554-1614)。吉田家は足利家から代々幕府に仕え医学の発展に尽くし土倉業(金融業)も営んで、「京の三長者」の一つに挙げられる富裕な家でした。了以は家業である医者を継ぐことなく、実業家として生きました。
角倉という名字は、京都の東西南北それぞれに官倉があったことからのちに角倉と言い表すようになったといいます。
了以は南蛮貿易で財をなし、慶長8年(1603)以降は徳川氏の朱印を得て、安南(ベトナム)などと交易していました。朱印船貿易は元和、寛永から了以の晩年まで続きました。

大仏殿再興のために開削

大慈閣千光寺 慶長9年(1604)、了以は備前国(岡山県)和気川で浅瀬を航行できる平底の高瀬舟を見たといいます。このことが京の高瀬舟のヒントになりました。
慶長13年(1608)、了以は幕府の許可を得て保津川(大堰川)の開掘を行い、これにより丹波の農産物や材木が京に運ばれるようになりました。
同年、大仏殿再興のため、資材や木材の運搬の命を受け、了以は鴨川(鴨川運河)で運ぶことを考えます。大坂からの資材を鴨川の水運で運ぶのは予想以上の困難な事業でした。無事に運んだものの、了以はより良い水運として京と伏見を結ぶ、高瀬川の開削を願い出ます。

水深約30センチの浅い運河

高瀬川  高瀬川は角倉了以・素庵(1571-1632)親子によって開削された京と伏見を結ぶ全長約11キロの運河です。
慶長16年(1611)~19年(1614)に完成しました。二条大橋の南でみそそぎ川(鴨川)から取水し、木屋町通沿いの西側を南下し十条通上流で鴨川に合流。かつては鴨川を東へ横断し、竹田街道と並行して西へ。濠川と合流し伏見港を通って宇治川に合流しました。二条通南側の一之船入(名勝天然記念物)をはじめとする九つの船溜りがありました。
現在は一之船入のみが残っています。 水深が約30センチと浅い高瀬川は船底が平らな高瀬舟が航行し、舟には船頭が乗り、曳き子が岸から綱で引っ張っていました。その掛け声「ホイホイ」から「ホイホイ舟」とも呼ばれていました。 最盛期には700人の曳き子、159隻の高瀬舟があったといいます。 開削費用は今のお金にして約150億円。了以は開削費用はもとより高瀬舟の造船費用にも私財を投じましたが、運河航行の使用料を徴収することで莫大な利益を得たといいます。

豊臣秀次と妻子を弔う

角倉家の墓  高瀬川開削完成の年に了以は61歳で亡くなりました。嵯峨野の二尊院に息子・素庵とともに眠っています。剛毅闊達で知られた了以が高瀬川の開削に着手したのは57歳の時。その旺盛なエネルギーには驚きます。一方で慶長11年(1612)、保津川(大堰川)の開削で命を落した人足を弔うために嵯峨の中院にあった千光寺を移転して大悲閣を建立するなど、慈悲深い人柄も印象に残ります。
高瀬川の開削の時、三条河原で斬られた豊臣秀次と妻子30人以上を埋めて秀次の首を曝した「悪逆塚」が荒れ果てていたのを憐れみ、「悪逆」の2文字を削って塚を修復し、供養のために瑞泉寺を建てたのも了以でした。高瀬川の風光とともに了以の面影が偲ばれます。

  • 高瀬川開削400年記念column ①

    高瀬川を歩く
    高瀬川を歩く

     角倉了以・素庵親子によって開削された高瀬川。高瀬川沿いの通り、木屋町は歓楽街として有名です。 明治の文豪・森鴎外の名作『高瀬舟』の舞台もこの川。江戸時代、遠島を申し渡された罪人が同心と共に高瀬舟で大坂に向かいます。どうしても重罪人には見えない男に同心は犯した罪を問いかけます。病気を苦に自殺を図った弟が死にきれず苦しんでいるのを見て、のどに刺さった剃刀を抜いたことで殺人の罪に問われたのでした―。様々な思いが川面に揺れています。

  • 高瀬川開削400年記念column ②

    角倉了以別邸跡
    高瀬川を歩く

     納涼床を出す「がんこ高瀬川二条苑」は江戸時代に建てられた角倉了以の別邸跡にあたります。邸宅はその東側、一之船入りの近くにありました。別邸の庭園は鴨川の水を引き込んで造られました。近代、邸宅の主人は変遷し、1894年、明治の元勲・山形有朋がこの地に(第二)無鄰菴を建てました。岡崎の無鄰菴は第三にあたります。その後持ち主は実業家・川田小一郎、政治家・阿部信行などへと移りました。

    場所 京都市中京区木屋町通二条下ル

  • 高瀬川開削400年記念column ③

    角倉了以別邸跡
    三高瀬川を歩く

     一之船入近くに角倉家の邸宅がありました。現在は日本銀行京都支店の敷地にあたります。角倉氏はいくつか邸宅を持っていましたが、ここが最大規模といわれ、邸内の庭園は鴨川から水を引き込み、噴水もあったと伝わります。この付近の町名は「一之船入町」。高瀬川を開削し川の管理者でもあった角倉氏はここに邸宅を構えて高瀬舟の航行を監視したといいます。嵐山にも保津川開削のときの邸宅があり、現在は料亭になっています。

    場所 京都市中京区木屋町通二条下ル

  • 高瀬川開削400年記念column ④

    一之船入
    高瀬川を歩く

     船入りとは高瀬川を運行する高瀬舟の荷物の揚げ降ろしをする船溜所のこと。一から九まであったが、一以外は埋め立てられました。大坂から来た三十石船の荷物を伏見港で高瀬舟に積み替え、数十艘の高瀬舟を縄でつないで、曳き子と呼ばれる人足たちが曳いて高瀬川を上りました。最盛時には159艘の高瀬舟、約700人もの曳き子がいたといいます。石碑と共に往時の高瀬舟のレプリカが舫っています。

    場所 京都市中京区木屋町通二条下ル一之船入町

  • 高瀬川開削400年記念column ⑤

    水の堰き止め石
    高瀬川を歩く

     御池通の橋の少し下流、高瀬川を横切るように3個の四角柱が並んでいます。一辺約15cm。左右の石には「コ」、中央の石には「H」型の溝があります。これは水の堰き止め石。水量が少ない高瀬川。高瀬舟は浅瀬でも航行できるように舟底が平たくなっていますが、水量不足だと航行が危うくなります。そこでこの石に木の板をはめ込んで水位を調節しました。水量が少ない高瀬川ならではの工夫といえます。

    場所 京都市中京区御池通下ル

  • 高瀬川開削400年記念column ⑥

    瑞泉寺
    高瀬川を歩く

     角倉了以が豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため建立した寺。秀次は秀吉の姉の子ですが秀吉の養子になりました。その後、実子・秀頼が生まれると秀吉から疎まれ高野山に出家。文禄4年(1595)、高野山で自刃させられ、その子、妻妾ら39名が三条河原で処刑されました。一族を埋葬した処刑場には大きな塚が築かれ、塚の頂上には秀次の首を納め「秀次悪逆塚」として見せしめにしました。16年後、荒廃した塚に心を痛めた了以が、墓を整備して瑞泉寺としたといいます。

    場所 京都市中京区木屋町通三条下ル石屋町114

  • 高瀬川開削400年記念column ⑦

    材木橋
    高瀬川を歩く

     今は納涼床も出る京都きっての歓楽街ですが、かつて木屋町エリアには材木問屋や材木商が軒を連ねていました。慶長16年(1611)-18年、角倉了以によって高瀬川が開削され、京都と伏見が結ばれました。高瀬川によって薪炭や材木が運ばれ、江戸中期頃から高瀬川東岸は「木屋町」として有名になったといいます。それまでは樵木町通と呼ばれていました。高瀬川の水運で物資が運ばれ、商いの隆盛と共に繁華街となり木屋町は栄えていきました。

    場所 京都市中京区木屋町通三条下ル

  • 高瀬川開削400年記念column ⑧

    土佐藩邸跡
    高瀬川を歩く

     高瀬川に面して旧立誠小学校の一帯にありました。坂本龍馬が最初の脱藩を赦されたとき「御叱り」として7日間謹慎した屋敷です。正保年間(1644-1648)、高瀬川の開削の際、備前(岡山県)から連れてきた船頭を住まわせたところ、と伝わります。のちに船頭たちは四条下ル西岸の船頭町に移され、その跡地に土佐藩邸ができました。かつて藩邸内にあった土佐稲荷も近くにあります。

    場所 京都市中京区木屋町通蛸薬師角備前島町

  • 高瀬川開削400年記念column ⑨

    角倉了以翁顕彰碑
    高瀬川を歩く

     1554年、京都の医家の家に生まれた角倉了以は、朱印船貿易で得た莫大な富で豪商へと成長し、大堰川開削工事、高瀬川開削工事などを完成させました。工事、高瀬舟の建造ともに私財で行いましたが、船賃を徴収することで短期間で資金回収ができたといいます。この顕彰碑は高瀬川開削三百七十五年記念として1985年に建てられました。大きなクワを手にした了以の胸像が高瀬舟に乗っています。

    場所 京都市中京区備前島町 旧立誠小学校玄関脇

  • 高瀬川開削400年記念column ⑩

    方広寺
    高瀬川を歩く

     方広寺の大仏の再建を命じられた角倉了以は、必要な資材を鴨川をさかのぼって京の三条まで運びましたが、それは困難な道程でした。そこで了以は京と伏見の間に運河を造ることを考え、息子の素庵とともに高瀬川の開削にあたったのです。方広寺の大仏は焼失、落雷など5回に及ぶ被害に遭い、昭和48年の火災を最後に再建されていませんが、「大仏前交番」などの名称に、往時の名残を感じます。

    場所 京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2

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