京都の市街地を流れる鴨川は、今も昔も多くの人を魅了し、心をなごませてくれます。南は五条大橋から北は高野川(東)と賀茂川(西)に分かれる出町柳まで全部で10の橋が架かっています。橋の上に立つと、東山~北山がパノラマで見える絶景。昔の人も同じ風景を見ていたのでしょうか。橋にはそれぞれの歴史と物語があります。橋を渡るときにはそんなことも思いながら歩いてください。
鴨川の歴史
白河法皇が「思うようにならないもの」を「比叡山の山法師、賽の目、鴨の水」と嘆いたように、鴨川は度々氾濫して被害をもたらす「暴れ川」でした。 今は穏やかな表情を見せている鴨川ですが、鴨川の治水は京都の人々の悲願だったといえます。
江戸時代「河原の涼み」の場所として、茶屋や料理屋が床几を出し、大いに賑わいました。床几は川の浅瀬に直接置くスタイルでした。芝居小屋なども建ち、祇園祭の神輿洗いも行われる人気スポットでした。
納涼床が高床式になったのは明治時代。戦後、「納涼床許可基準」が設置され、現在では「納涼床設置規則」を定めています。自然に包まれてくつろぐ、納涼床ならではの魅力に触れてください。
鴨川を美しくする会
多くの人の憩いの場である鴨川。ゴミがあったら興ざめですね。昭和39年(1964)に地域住民によって設立された同会は、河川美化と環境保全を目的としたボランティア団体です。鴨川クリーンハイクをはじめ、様々な啓発活動を行っています。鴨川納涼床協同組合のメンバーも清掃活動などに積極的に取り組んでいます。鴨川を愛する地元住民の心が、いつ来ても気持ちよく過ごせる「鴨川」を生み出しています。
おもしろスポット
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擬宝珠は語る
擬宝珠は格の高い橋や建物に付けられていたようです。天正18年(1590)、豊臣秀吉は三条大橋と五条大橋を石柱の橋に架け替えました。その時の擬宝珠が三条大橋と五条大橋に今もいくつか残っています。
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とび石
鴨川を渡る、カメのとび石が有名ですが、二条大橋北側には千鳥と舟形のとび石があります。ここだけ異色のデザインです。澄んだ流れを見ながら渡って見ましょう。※とび石は増水時は使えません。
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鯖街道
賀茂大橋が架かる出町柳が「鯖街道」の終着点。若狭で獲れた鯖に塩をして京都へ運んだ街道を鯖街道といいます。出町柳で荷をほどき、洛中の魚屋や料理屋に若狭の鯖を売りに行ったのだとか。おいしい鯖寿司を京都で味わえるのも鯖街道があってのことなのですね。
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水鳥たち
鴨川は水鳥たちのオアシス。シラサギやコサギ、アオサギなど、サギ類が美しい姿を見せてくれます。カモ、セキレイなども可愛らしい。ただし、エサは決してやらないように。トンビが狙っています。真っ黒なカワウはもともとの住人ではありません。貪欲な食欲で元にいた川の魚を食べ尽くし、鴨川に飛来しています。一見平和な川ですが、常に生態系が危機にさらされていることも知ってください。
京都 鴨川 橋ものがたり①
荒神橋
「京の七口」の一つ「荒神口」にあたります。西詰に清荒神護浄院があり、火の神様、竃(かまど)の神様として信仰され女性の守り神ともいわれています。安政2年(1855)の皇居炎上の際に天皇の移動のために架けられた橋で「勤皇橋」ともいわれました。明治になると、東側一帯に京都牧畜場が広がっていました。その後旧京都織物のレンガ造の建物が建ち、現在は稲盛財団記念館が建つ京大の敷地です。1953年、大学生100人が警官隊と衝突した「荒神橋事件」があり、学生運動が盛んだった時代を彷彿させます。
京都 鴨川 橋ものがたり②
丸太町橋
幕末、丸太町橋東詰めには三本木という花街がありました。のちに桂小五郎の妻となる幾松はここの出身。橋の北側には頼山陽の書斎「山紫水明処」があります。鴨川の美しい風景を山紫水明と表現したのは頼山陽が最初です。明治になって女子教育機関である「女紅場」ができました。同志社を創立した新島襄の妻、八重もここで教鞭をとっていたことがあります。江戸と近代が交錯する橋。そんな歴史を思いながら歩いてみましょう。
京都 鴨川 橋ものがたり③
三条大橋
三条大橋は東海道五十三次の「上がり」。
行き交う旅人でにぎわい、旅籠や料理屋、土産物屋が並んでいました。三条大橋西詰には『東海道中膝栗毛』の主人公・弥次さん喜多さんの銅像も立っています。
もう一つ、三条大橋東詰めに「高山彦九郎先生銅像址記念碑」があります。江戸時代後期の尊皇家高山彦九郎が御所を望拝している姿です。「寛政の三奇人」と称された彦九郎は18歳で家を出て、各地を回って尊皇論を説きました。初代の銅像は第二次大戦中に金属供出され、現在あるのは1961年に再建された像です。京都 鴨川 橋ものがたり④
四条大橋
「河原の涼み」と言われ人気だった「納涼床」。江戸時代中期頃から夏の楽しみとして広がっていったといいます。特に祇園祭とは縁が深く、神輿洗いの時に四条大橋の上から鴨の水を汲むのは今も昔も変わりません。四条通は八坂神社への参道。山鉾も神輿もすべて四条大橋を渡って八坂神社へ参ります。稚児社参、吉符入などの神事も四条大橋を渡って八坂神社へ。祇園祭のにぎわいを納涼床から見るのも町衆の喜びでした。それは今も昔も変わりません。
京都 鴨川 橋ものがたり⑤
五条大橋
五条大橋は実は六条坊門通に架かっています。天正18年(1590)、豊臣秀吉が方広寺の造営にあたり資材を運ぶために橋を付け替えました。それに伴い五条通と呼ばれるように。かつての五条橋は現在の松原橋。清水寺の参道として栄えました。五条大橋は最初は木橋でしたが、正保2年(1645)に高欄と擬宝珠のある石造の橋に改造。今では牛若丸と弁慶の像が有名ですが、橋の西側には「扇塚」があり、平安時代の初期、扇が初めてこの地で作られたと刻まれています。