ひたすらに日本を思い、若くして命を落とした人々。新選組も、勤皇の志士たちもその思いは同じです。会津藩藩主の松平容保が京都守護職に任ぜられ、金戒光明寺に陣を張ってから大政奉還までわずか5年。この間に尊皇攘夷、佐幕に揺れ、禁門の変があり、長州が朝敵となり、薩長同盟が結ばれました―。
今年は大政奉還から150年。慶応3年(1867)10月14日、徳川第15代将軍慶喜は天皇に対し「従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉る」と上表しました。徳川家康が築城し、「菊と葵」を見守り続けた二条城二の丸御殿はこうして終焉を迎えます。12月9日に「王政復古の大号令」が出され、「大政返上」が現実のものになります。264年続いた江戸時代から明治時代へ。京都は新時代を生み出す痛みと胎動を肌で感じていました。
佐幕も勤皇の志士も20代~30代という若さ。若い力が日本を変えたのだといえます。そんなことも思いながら、彼らが住んだ木屋町、河原町界隈を歩いてみてください。

高瀬川 一之船入 (木屋町通二条下ル)
慶長16年(1611)、角倉了以が開いた運河が高瀬川。この川を運行する高瀬舟の荷物の揚げ降ろしを行う船溜りを「船入(ふないり)」といいました。一番北にある一の船入(木屋町通押小路)から南へ、時代によって七~九の船入があります。この水運があるため、脱藩した志士たちが伏見港まで淀川などで京に入り、その後高瀬川で洛中を目指しました。高瀬川に沿って土佐藩邸、彦根藩邸、長州藩屋敷、加賀藩邸などもあり、志士たちが隠れるのにはうってつけだったため、桂小五郎、佐久間象山など多くの志士が住んでいました。

「土佐藩邸石碑」と「土佐稲荷」(木屋町通蛸薬師角)
元立誠小学校にありました。文久2年(1862)の1回目の脱藩で、龍馬は罰として土佐藩邸で7日間謹慎しました。土佐稲荷の正式名称は岬神社。室町時代初期に鴨川の中州に祠を建てたと伝わりますが、その後場所が転々と変わり、土佐藩京屋敷内に祀られてからは土佐稲荷と呼ばれるように。屋敷内にありますが、誰でもお詣りすることができ、庶民の信仰を集めていました。

「吉村寅太郎寓居跡」(木屋町三条上ル)
「武市瑞山先生寓居之址碑」(木屋町二条上ル)
吉村と武市の住まいはほど近く、志を同じくする二人の交流はあったのでしょうか。吉村は天誅組の失敗で26歳で命を落とし、武市は土佐勤皇党の結成後粛清され土佐で切腹。36歳でした。

「池田屋騒動之址碑」(河原町三条河原町東)
元治元年(1864)、長州・土佐など討幕派が池田屋で謀議中に新選組に急襲された事件。新選組はその勢力を拡大していきます。

「本間精一郎遭難地碑」(木屋町通四条上ル)
越後国出身の勤皇の志士ですが変節を疑われ6人の刺客に襲われます。その中には土佐の人斬り以蔵こと岡田以蔵もいました。

「中岡慎太郎寓居地碑」(木屋町通四条上ル)
龍馬の盟友、中岡慎太郎は土佐藩御用達「書林菊屋」に下宿していました。菊屋の息子の峯吉は、龍馬と中岡にかわいがられていました。二人が暗殺された夜、峯吉は龍馬に言われて軍鶏を買いに行き、軍鶏を提げて帰って来て惨劇を目撃。第一発見者となりました。

「此付近お龍独身時代寓居跡碑」(木屋町通六角下ル)
お龍は青蓮院に仕える医師・楢崎将作の長女でした。父の死後、一家は困窮し一家離散となります。お龍は七条新町の「扇岩」に住み込んで働き、母は大仏南門前の土佐藩亡命志士の隠れ家で働きます。その縁で龍馬とお龍は出会い、龍馬は伏見の寺田屋の女将お登勢にお龍を預けます。寺田屋事件の後、二人は結婚。龍馬30歳、お龍24歳でした。


幕末の京都を石碑で読み解く①
古髙俊太郎寓居跡碑 四条河原町上ル一筋目東入ル
商人になりすまして志士たちを支援する地下活動を行っていた枡屋喜右衛門こと勤皇の志士・古髙俊太郎。新選組に踏み込まれて捕えられ、旧前川邸で残酷な拷問を受け計画を喋ってしまいます。計画を知った新選組の面々は、夜の京都へ探索に走り出します。これが元治元年(1846)の「池田屋事件」。近藤勇、沖田総司らが木屋町三条の旅館池田屋を突き止め、謀議中の志士を発見。彼らと白刃を交え計画を阻止。この事件で新選組の名は京都中に轟いたといいます。
幕末の京都を石碑で読み解く②
禁門の変 京都御苑
激戦地であったことから「蛤御門の変」、「元治の変」とも呼ばれます。元治元年(1864)、長州勢力によって始まります。文久3年(1863)の八・一八の政変で京都を追放されていた長州が、会津藩排除と京都奪取を目指して挙兵、京都市中3万戸が焼失する大火災となりました。激しい戦闘の末、長州は敗北し「朝敵」として京を追われる身となります。この時の火災は天明の大火に次ぐ大火とされ、「どんどん焼け」ともいわれます。蛤御門には今も当時の弾痕があります。
幕末の京都を石碑で読み解く③
坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地碑 河原町蛸薬師下ル
悲願の大政奉還(慶応3年1867年)から約1カ月、龍馬の定宿は海援隊京都屯所の酢屋でしたが、「刺客が狙っている」との情報から近江屋に移りました。裏庭の土蔵に匿われたのですが、風邪をひいていた龍馬は母屋の八畳間にいました。寒さの厳しい11月15日。使い走りの少年に軍鶏を買ってくるよう使いに出した後の夜9時頃、戸を叩く音がし、「十津川郷士である」と名乗ったため開けるや否や白刃が閃きました。龍馬33歳、中岡30歳という若さでした。