
疏水から水力発電が生まれ、水力発電が市電を誕生させ、
内国勧業博覧会が平安神宮と時代祭を生みました

大政奉還という歴史の激動の舞台は京都でした。
明治2(1869)年、東京奠都が行われ、江戸は首都・東京になるとともに、明治天皇も東京に遷られます。それに伴い、京都から東京へ移る人々も多く、
天皇を失った京都は心にぽっかりと穴が空いたような寂しさがありました。
明治2(1869)年に開校した番組小学校(上京第三十七小学校、現京都御池中学校)は日本で最初の学区制小学校です。
明治3(1870)年、岡崎に舎密局(せいみ、シェミストリ=化学)を開設しビール・ガラス・石鹸などの製造研究を行い、技術者を養成しました。
ここで教鞭を執った理化学者・ワグネルの碑が岡崎の市立図書館の北側の公園にあります。島津製作所の初代島津源蔵もここで教えを受けました。

明治5(1872)年には女子の教育機関である女紅場(丸太町橋東)、府立病院の前身である療病院(木屋町二条)ができ、新京極通が開通。明治8(1875)年、新島襄によって同志社英学校が開校。明治10(1877)年には京都駅(七条ステンショ)開業し、日本初のシネマトグラフの試写が旧立誠小学校の場所で行われました。明治13(1882)年、日本初の公立画学校(現京都芸術大学)が開校し、明治22(1890)年に帝国京都博物館が開館しました。
まだまだ枚挙にいとまがありませんが、誰もがよく知る偉大な事業「琵琶湖疏水」「京電(市電)」、「内国博覧会」について取り上げたいと思います。
琵琶湖疏水と市電

明治23(1890)年、琵琶湖第一疏水が完成しました。第三代知事、北垣国道が灌漑、上下水道、水運などの整備を目的に、田辺朔郎に命じて設計させました。区間は滋賀県大津三保ヶ崎―鴨川合流点まで。観光地やドラマのロケ地としても有名な南禅寺水路閣は、環境に配慮したという田辺のデザインです。 翌年、当初の予定にはなかった蹴上発電所が建設され、京都電気鉄道がこの電力を使って、明治28(1895)年、日本で最初の市街電車を走らせました。 最初は伏見―七条間でしたが、その2カ月後には七条―南禅寺間が完成します。第四回内国勧業博覧会の開催に伴い、観客を運ぶ手段として木屋町線の開業を急いだのでした。高瀬川沿いを走り、木屋町二条から仁王門通を東に往く市電は、博覧会の足として重宝されました。
第四回内国勧業博覧会

歴史・文化都市京都としての一方で、琵琶湖疏水、蹴上発電所などの工業都市としての顔もアピールするため、第四回内国勧業博覧会と平安遷都千百年紀念祭が開催されました。このとき、平安遷都千百年記念事業として平安神宮が創建され、第一回時代行列執行(現時代祭)が行われました。今も昔も市民による祭りであることは変わりません。 第四回内国勧業博覧会はまだ畑が広がる岡崎に、工業館、農林館、器械館、美術館など多くのパビリオンが建ち並び大盛況だったといいます。 現在の岡崎一帯にはロームシアター京都、京都市勧業館(みやこめっせ)、京都府立図書館、京都国立近代美術館、京都市美術館、京都市動物園、グラウンドなどがあり、「岡崎文化ゾーン」として、今も昔もにぎわっています。
明治時代の京都はスゴイ!①
京都市学校歴史博物館 下京区御幸町通仏光寺下ル
明治2(1869)年、日本最初の番組(学区制)小学校64校を創設した京都。そこにはこれからの時代、学問こそ大切と考える京都の町衆の力がありました。同館は京都の学校教育の史料と美術工芸品を常設展示する博物館です。番組小学校のひとつだった元開智小学校の校舎を利用しており、正門、石塀、玄関車寄せが国・登録有形文化財になっています。懐かしいものから先人の足跡をたどる展示まで約3カ月ごとの企画展も開催しています。 ▼開館9時〜17時 水曜休館
明治時代の京都はスゴイ!②
療病院址碑 御池大橋西詰め
明治5(1872)年、蘭方医・明石博高が資金を募って創設した病院がありました。ここが京都の近代医療の第一歩であり、行政主導ではなく、民間の力で建てられた府民病院は京都の誇りと言えます。この病院に仮病院を開設し、ドイツ人医師らによる診療を開始。同年11月に青蓮院に移転。明治13年には本院となり河原町広小路に開院しました。これが京都府立医科大学付属病院の前身です。明治時代、全国に先駆けて種痘などにも取り組みました。
明治時代の京都はスゴイ!③
電気鉄道事業発祥地 下京区塩小路通東洞院南西角
明治28(1895)年、民間の京都電気鉄道が京都に日本最初の路面電車を誕生させました。東洞院七条下ルの鉄道踏切南側から伏見の下油掛通まで、約6キロの間を運行しました。琵琶湖疏水による水力発電の電力で走っていたため、毎月疏水の藻を刈る1日と15日が運休日となりました。当時は「疏水止まれば電車も止まる」と言われたそうです。明治32(1899)年に東九条村(当時)に石炭を使った火力発電所ができ、その電力を使うことにより運休日は解消されました。